「泉川病院災害医療派遣チーム」をレポート

special/しましま

2018/11/28 20:00



2016年4月、熊本地震。2016年10月、鳥取地震。2017年7月、九州北部豪雨。2018年6月、大阪府北部地震。2018年7月、西日本豪雨。

今回は、さまざまな災害の現場に向かい、被災者の医療支援や支援物資の配布、救助活動などを行っている「泉川病院災害医療派遣チーム」をレポート。

【泉川病院災害医療派遣チーム】
1991年、雲仙普賢岳の噴火で被災し、多くの皆様からの支援を受けた経験をもとに、感謝・恩返し・経験を生かす意味で2012年に創立。
メンバーは医師1名、看護師5名、技師2名、事務員2名の10名と、後方支援の事務員3名の計13名で活動を行っ ている。




< 2016年4月14日~4月16日 熊本地震 >


災害の急性期から亜急性期において災害時要援護者にも配慮した医療援護活動が行える医療チームAMAT(全日本病院協会 災害時医療支援活動班)である泉川病院災害医療派遣チームは、2016年4月14日、熊本地震発生から約3時間後に病院のある南島原市深江町から出発。トラックに斧やミニバイク、食料、飲料水、生活用水、テントを積み込んだ。
午前5時30分ごろには甚大な被害を受けた益城町に到着。野営テントを設営し、現地の状況をいち早く把握する為、チームに分かれ被災状況マップを作成。その日はマップ作成と治療活動にあたり、夜間になると捜索班以外は休憩をとっていた。


2016年4月16日午前1時25分、本震発生。

あたりは暗闇になり建物が倒壊、すぐ近くにいる捜索班隊員の顔も見えないほどの砂煙が上がる。テントにいた隊員は捜索班と連絡をとりつつ、治療や安否確認。

医療支援目的で行っていたが、本震で家が倒れていく中、救助せざるを得ない状況になり、倒壊家屋や車内に閉じ込められた被災者の救出などを行う。

救出の最中、福岡県警第一機動隊が到着。倒壊家屋から約2時間後に救出できた被災者を無事病院へ搬送でき、初めて一息つくことができた。

その後も、福岡県警第一機動隊と共に移動し、救出活動。
余震も続き救出活動を行っている家屋二階部分も倒壊し始め、本来なら撤去すべきだが、挟まれ苦しんでいる被災者を助けたい!という思いで、倒壊の恐怖と緊張の中、救出作業を続けた。


その日の夕方、隊員の疲労状態を考え長崎へ戻るも、再度、派遣依頼があり益城町へ。




< 2016年4月19日~4月22日 熊本地震 >


熊本県益城町「かいがクリニック」の前で。

4月19日から22日までの4日間、ベーステントを益城町の「かいがクリニック」駐車場に設営し、訪れてくる被災者の治療や保健婦さんとの連携などの医療支援の他、800本ほどの飲料水・生活用水・ガソリンなどの配布を行い、顔見知りの住民もでき、復興に向かう第一歩の支援を終えた。

Q)チームを結成することになった経緯を聞いてみた。

最初のきっかけは2011年の東日本大震災。院長一人で復興支援をしようとしたが、現地に行くことすらままならず、医療支援を行うことができなかった。
災害が起きてすぐ現地に向かい、救助の人が行けていないところまで行き医療支援を行えるようなチームを目指し、2012年にチームを結成した。
最初は3人で活動を始めたが、3人では何もできないことが分かり、7人8人と増えていき、2013年からは、年に2回、自分たちで訓練も始めた。
野宿で自炊をすることから始まり、回を重ねるごとに実際の災害時に近い状況のシュミレーションを設定し、職員協力のもと被災者50名を想定。避難住民の移動や15分以内の避難「サーチ&レスキュー」を目標に訓練している。




<実際の訓練の様子>



災害を想定したシュミレーションを設定し、動きの確認を行っていたことが、実際の災害でも役に立ちスムーズな連携をとることができた。


宮崎県での訓練時、作成した被災状況マップ。
津波などの水害を想定し、海抜を測定している。

最近の訓練時にも島原半島の沿岸を歩いて回った。海抜がどれくらいあるのか、有明海で津波が起きた場合何メートルの津波が起きて、どの地域が水没するのか、何日くらい食糧はいるのか?を考えた。




<災害時装備>




病院の敷地内には、車やバイクボートなどを保管。


すべてのリュックは同じ装備が常備されており、被災地現場の混乱でリュックが入れ替わっても安心して使用できる、という。


Q)実際、支援に関わってどうだったか?

●熊本地震後、益城の方々がお礼を伝えてくれたので励みになった。
●地震が続く中、レスキュー隊と協力して救出した人に応急処置をして無事病院に運べて助けられた瞬間、自分たちの活動が間違ってなかったのかなと思えた。
●朝倉市に支援を行った時、熊本で救出を共にした福岡県警第一機動隊の方から「泉川病院の人ですか?」と聞かれた。自分たちの活動を知っていてもらえたことが嬉しかった。
●益城町で水などの配布時、被災された方から「ありがとう。」と言ってもらえたことが嬉しかった。被災されて大変な時なのでこちらを気遣う言葉をかけてくれる優しさを感じた。
●益城で被災者の方から「あなたたちきついのに大変ね。がんばってね。」と言ってくれた。あの時は泣きそうなくらい嬉しかった。
●被災者の方や行政の方たちから、「来てくれて助かった。」と言われ励みになった。
●益城で本震発生。座っていることもできないくらいの揺れの中、近くの家が倒壊していき、すぐ隣のメンバーの顔も見れないほどの砂けむりが舞い上がった。目の前の道が割れ、前を走っていた軽トラックが信じられないくらいに揺れた。激しい地震が収まり、「大丈夫か?!」と確かめ合ったメンバーの顔から血がでていた。無事帰った時、ちゃんと帰ってこれたんだなと実感した。支援に行っている自分たちも気を付けていかなければと身を引き締めた。
●4月から参加したばかりだが、普段の生活から災害地の現状を目の当たりにして、気を引き締めていかないと、と改めて思った。
●東峰村で一週間支援をおこなっている時、挨拶を交わす程度だった被災者の方たちとも話をするようになり仲良くなれたので、がんばっていこう!と思えた。




<2017年7月九州北部豪雨>



2017年7月、九州北部豪雨では朝倉市で活動後、東峰村へ向かう。橋も崩落し、渡ることができなかったので自衛隊への救助要請後、ロープなどで支援物資の提供を行った。

道路寸断や河川の氾濫で車両通行が困難に。安全確保を行いながらバイク、徒歩で避難所に向かい医療支援をする。

「東峰村ではメンバーの一人が、ロープ伝いに川を渡っていた時、落ちてしまった。幸い無事だったが、その時まで災害が起きた場所へ支援に行っている自分たちだが、大丈夫だろう、安全だろうと漠然と感じていたことに気づいた。
いつ何が起こるか分からない、そんな場所に「現場に向かいましょう!」と自発的に声を出す隊員たちと、この環境で、このチームでやれていることが一番の喜びだと思う。」と泉川卓也院長は振り返る。



< 泉川病院災害医療派遣チーム >
(後方左から)
松本看護師、姫野看護師、才木看護師、内田看護師、櫻間事務員、柘事務員、(前列左から)
平田看護師長、泉川院長、岩永臨床工学技士、時津検査技師。

「1週間野宿をしたり、災害が起きた場所にいくので、暗く殺伐とした雰囲気になりがちなのだが、隊員同志、心を分かち合っているので、明るい雰囲気で活動が続けられることがありがたい。
野宿している時も、電柱のそばにはテントを張らないなど、経験を積むにつれて現場で学び身に着けて行動しているのを感じて嬉しく思う。
どこまでやれたのか分からないが、やれるだけの支援を行い誰も倒れず笑顔で戻ってこられる、そしてそのお礼の言葉までいただけることがあると、次の活動へのモチベーションにつながり、準備を怠らないようにと新たな気持ちになる。」

「災害が起こらなくても、そのもしもの場合をイメージして準備して生きていくことが大事だと思う。」と、島原半島に住む私たちに泉川卓也院長は呼びかける。

災害が起き、すぐに救助や支援の手が届かない場所がある。
そんな場所に医療器具を持って回ってきてくれるこの医療支援チーム。
これからも試行錯誤しながら、そんな人たちの支えになるため、活動は続いて行く。

【 医療法人栄和会 泉川病院 】
長崎県南島原市深江町丁2405
TEL / 0957-72-2017
HP / http://www.izumikawa.or.jp/


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